duet of a phantom
毎年夏に行われる全国学生音楽コンクールは、今や国内外から注目される大会である。 その大きな理由の一つは、その大会を経て、多くの世界的な音楽家が生まれた事であろう。 特に今から数年前、伝説と語られる年があった。 その年のコンクール参加者は軒並み、その後名を馳せる演奏者へと成長を遂げている。 東日本大会敗退だった至誠館からはジャズ界のホープとして名をとどろかせる水嶋新。 セミファイナル敗退の神南高校、東金千秋と土岐蓬生のデュオはクラシック界の新風として二人のCDはクラシックでは異例の売り上げを記録している。 そして惜しくも準優勝だった星奏学院からは、若手の正当派演奏者として注目を集める如月響也と水嶋悠人。 その他にも、優勝校の兄弟校である横浜天音からも当時から活躍していた冥加玲二や天宮聖に加え、最近、にわかに注目を浴びている七海宗介などが参加していた。 けれど、そのコンクールを何よりも伝説と言わしめたのは、当時の優勝校の立役者の存在であろう。 「『その名は、小日向かなで。二十代にして、すでに世界的にファンを有する日本でもトップクラスのヴァイオリニストである』 ―― っと、ちょっと文が派手すぎるかな?」 カタカタとノートパソコンのキーを軽快に打ち鳴らしていた天羽奈美は、ここへ来て少し首をひねった。 事実と違っているわけではないのだが、どうも表現がしっくりこない。 そう思って、ノートパソコンの周りに広げられた取材ノートへ目を落としていると。 「相変わらず忙しそうだね。天羽ちゃん。」 「あ!」 軽やかな声が聞こえて顔を上げた天羽の目に、待ち合わせ相手の姿が映って、そう言えばここはオフィスでも自宅でもなく、通い慣れた喫茶店の一角だったと思い出す。 「ごめん、ちょっと時間あったから仕事してた。」 慣れた様子で向かいの席に座る待ち合わせ相手・・・・高校からの付き合いである日野香穂子にそう謝罪すると、香穂子は笑って首を振った。 「何をいまさら。会う度に天羽ちゃんはいつもこんな感じじゃない。」 「あう、それを言われると申し訳ない。」 「いえいえ。なんせ天羽ちゃんの記事は有名だからねー。こないだもうちの生徒が音楽雑誌に載ってる天羽ちゃんの記事を見て、解釈が斬新で好きだって言ってたよ。」 注文を取りに来た店員に紅茶を頼みながら香穂子の言った言葉に、天羽はありがとと微笑んだ。 高校時代から記者を夢見ていた天羽が、気がつけば音楽関係の雑誌社に就職していたのは間違いなく目の前の親友のせいなのだが。 「日野ちゃんこそ、今年のコンクールの準備で忙しくないの?」 そう天羽が聞いたのは、ちょうど今、まとめようとした記事に出ていた全国音楽コンクールが二ヶ月後に迫っているという時期だったからだ。 今年も香穂子が顧問をしていて天羽の母校でもある星奏学院のオーケストラ部は優勝候補に上がっていたはずだ。 「うちは今年の部長がしっかりしてるから大丈夫。」 「また、あっさりと。まあ、教師がしゃしゃり出るのも何かな。」 胸を張って人任せな事をいう香穂子に苦笑したものの、その実、香穂子がちゃんと生徒達を見守っている事を知っているので、天羽はそれ以上言わずに、とにかく久しぶりの友人との時間を楽しもう、と机の上に散らばった資料をかたづけようとした。 しかし、それをちらっと見た香穂子が目を輝かせる。 「あ!小日向さんの記事!天羽ちゃん、取材したの?」 「ああ、そうだよ。日本公演をするっていうから、行って来たの。」 「うわ〜、良いなあ〜。」 本当にうらやましそうな顔をされて、天羽はちょっといたずらっぽく笑った。 「ふふん、うらやましいでしょ〜?」 「うらやましいよ〜!だって今、すごいチケット倍率でしょ、あの子。」 香穂子の言うとおり、小日向かなでのコンサートチケットは、今では国内外を問わず完売のオンパレードで、なかなか手に入らないのだ。 「私、一度しか聴いた事ないんだよね。ね、ね、どうだった?」 「うーん」 身を乗り出すようにして感想を求めてくる香穂子に、天羽は少し言葉を選ぶ。 「私は今回が初めてだったんだけど・・・・そうだね。ここだけの話だけど日野ちゃんの演奏に少し似てる気がした。」 「え?」 きょとんっとした香穂子に、天羽は何とはなしに手元の資料に目を落とした。 そこには丸いボブヘアの可愛らしい女性が舞台に立っている姿の写真がある。 「日野ちゃんは音楽教師になったけど、例えば日野ちゃんがそのままヴァイオリニストを目指してたら、こんな感じになったんじゃないかなって。」 もちろん、香穂子は高校時代にほとんど突発的な事態からヴァイオリンを持つ事になり、そこから音楽人生が始まっているので、それに比べると子どもの頃にも賞を取っていた小日向かなでとは違うだろう。 「でも・・・・なんか、こう、上手く言えないんだけど、演奏している時の空気感が似ているっていうのか・・・・」 「ああ・・・・それはそうかもね。」 記者にしては曖昧な言葉選びしかできずに、天羽がもやっとしていると、何故か香穂子が納得したように頷いた。 そのあっさりした態度に天羽は少し疑問を覚える。 「日野ちゃん?」 「あ!や!別に、私が小日向さんみたいに上手いってわけじゃなくてね!?」 急に我に返ったようにあわあわと手を振りながら「彼女にもやっぱりずっと一人ついてるみたいだし」と続けた言葉の意味はわからなかったが、香穂子が天羽の取材ノートに再び目を落としたことでそれを追求するタイミングは失われた。 「こらこら日野ちゃん。覗かない。ちゃんと記事になってから見て下さいよ。」 「あ、ごめんごめん!もちろん記事になってからは買うよ。でも独占インタビューしてきたんでしょ?」 「結局、話は聞こうとするんじゃん。」 一応守秘義務というものがあるので取材ノートを閉じながら天羽が言うと、悪びれた様子もなく香穂子が笑った。 「だって気になるでしょ。私、あの子の演奏好きだし。いいよね、暖かくて、でも爽やかな感じで。」 「『五月の木々の梢を揺らす音色』だからね。」 小日向かなでの音色を例えるフレーズを持ち出すと、香穂子がうんうん、と頷いた。 「本当にそんな感じ!」 「このキャッチフレーズを考えた記者はすごいよね。」 誰が言い出したのかは知らないが、これほど小日向かなでの音色を言い表すのにぴったりの表現はない、と記者としての一抹の悔しさを感じながらも天羽は感心する。 一見すると小柄で、海外では子どものようだと称される小日向かなでだが、その彼女がステージにたちヴァイオリンを奏で始めた瞬間から、観客はきらきらと梢に遊ぶ五月の木漏れ日をみるのだ。 心地よい風とそれに乗るヴァイオリンの音色。 「特に、アンコールの『愛のあいさつ』は別格だった。」 先日聴いたばかりの音色を思い出しながら天羽は呟いた。 ソロリサイタルでの小日向かなでのアンコールは面白いことに、いつも『愛のあいさつ』と決まっている。 普通ならアンコールは意外性も込めて替えてくるものだが、彼女はいつもコンサートの締めくくりはこの曲と決めているようだった。 そして彼女のファンの中には、このアンコールが聴きたいがためにコンサートへ行くという人もいるぐらい特別な一曲なのだ。 「いつも、『愛のあいさつ』なんだよね。それについての取材はされたんですか?天羽記者?」 「もちろんでしょ。」 からかうように香穂子に天羽は大きく頷いた。 アンコールがいつも『愛のあいさつ』なのは、小日向かなでの特徴の一つだ。 記者として聞かないわけにはいかない。 「で、なんて?」 「『最後はいつもデュオで終わりたいんです』。」 「へ?」 「いやね、小日向さんがそう言ったんだよね。」 きょとんとした顔をする香穂子に、天羽は苦笑した。 実際、天羽だってそんな顔をしかかったのだ。 「そりゃあたしだってソロリサイタルでデュオ?って思ったけど、なんか反論できなかったんだよね。」 取材して初めて顔を合わせた小日向かなでは、想像していたよりずっと普通の女性だった。 少し天然っぽいところはあったけれど、取材に対して終始楽しげに答えてくれていたし、素直で可愛い子だな、ぐらいの感じだったのだ。 けれど、2つの質問に対してだけ彼女は特別な顔を見せた。 その一つが、『愛のあいさつ』について。 『小日向さんはソロリサイタルのアンコールは『愛のあいさつ』と決めていると聞いていますが、理由をお伺いしても?』 そう聞いた天羽に対して、小日向はわずかに目を見開いて・・・・それから、切なそうに目を細めて言った。 『最後はいつも 』 「・・・・デュオなんだ。じゃ、あのチェロはやっぱり・・・・」 「?日野ちゃん何か言った?」 「あ、ううん!なんでもないよ。えっと、その・・・・ああ!あと、小日向さんと言えばあの仕草も有名だよね!」 何か考えるようにして香穂子の言ったことが聞こえなくて、聞き返したのに、慌てて香穂子が新しいネタをふってきた。 まあ、天羽自身、『愛のあいさつ』についてはそれ以上触れられなかったこともあったので、ありがたく次のネタに乗らせてもらう。 「あれでしょ?演奏会の最後にいつも左手の指先にキスをするっていうの。」 これも小日向かなでのコンサートに行った人がよく見る光景だった。 彼女は何故か最後の曲を弾き終わると、挨拶をした後に、左手の指先にキスをする。 芸術家に決まったジンクスがあるのは珍しいことではないので、癖のようなものとして認識されているのだが。 「これについてはちょっと衝撃のお答えだったかなー。」 「え!?なになに?」 ちょっともったいぶると、香穂子が好奇心たっぷりに目を輝かせる。 こういう素直な所、日野ちゃんの美徳だよね、と内心で微笑ましく思いつつ、天羽は聞いて驚けとばかりに言った。 「あれは恋人へのサインなんだって。」 「恋人?」 「そう、恋人!今まで聴いた事ないでしょ?」 天羽の言葉に香穂子は頷いた。 確かに小日向かなでの恋人の存在など、今まで報じられたことはない。 基本的に音楽家のゴシップが報じられるというのはあまり例を見ないが、小日向の場合は周りが華やかすぎるせいもある。 「だからさー、あたしは如月響也か、如月律ですか?って思わず聞いちゃったんだよね。」 「あ、そっか。幼なじみなんだっけ?」 「そう!片や売り出し中の若手ヴァイオリニスト、片や新進気鋭のヴァイオリン職人でしょ?でも、彼女違うって。」 『響也と律くん?残念ながら違います。』 ある意味ぶしつけな推測にも穏やかに笑って首を振った彼女の姿を思い出す。 あまりにも気負った様子もなかったので、面白くなって天羽は更に推測を重ねた。 『じゃあ・・・・東金千秋さんとか?結構、貴女のコンサートで見かけるって話を聞いてますよ?』 『東金さんは・・・・確かによく来るんですけど、あれはなんていうか、私で遊んでいるっていうか、私で遊ぶタイミングを計ってるっていうか。』 困ったもんです、と苦笑する彼女を一瞬、大物だと思ってしまった。 なんせ、今の東金千秋と言えば、巷でアイドル並にブロマイドがばらまかれている美形である。 それをまさか近所の悪ガキのように言われるとは。 「じゃあ、冥加玲二?確か同じ学校じゃなかったっけ?」 「兄弟校ね。それも聞いてみたんだけど・・・・」 『は!?そ、それはないです!えーっと、私はともかく、冥加さんのインタビューの時には間違ってもそんなこと言わないで下さいね?』 「・・・・真剣に私の心配された。」 「天羽ちゃんの?なんで?」 「うっかり冥加玲二に小日向かなでと付き合ってますかなんて聞いたら地獄を見るって。」 「え、ええー?」 「まあ、それはともかく、そんなわけで誰だかはわからなかったんだけどね。」 それだけは少し残念だった。 ゴシップが書きたいわけではないが、小日向かなでの音楽の源の一つをぜひ知りたいと思ったのだ。 と、そこまで思い出したところで、天羽はふっとあることを思い出した。 「そういえば、彼女。ちょっと不思議な事言ってたな。」 「不思議な?」 「うん。その恋人についての話の最後にね・・・・えっと、あ、これだ。」 言いながら天羽は一度閉じた取材ノートを再び開く。 そうして欄外に走り書きしてあった言葉の一つを見つけて再び首をひねった。 「『私の恋人はきっとわからないと思いますよ。『愛のあいさつ』がデュオに聞こえないなら。』か。どういうことだろうね・・・・って、日野ちゃん?」 確かあの時、彼女が言った言葉をそのままメモしたはずだけれど、やっぱり意味がわからないと首をかしげた天羽は、ふと、目の前の席で何か考え込んでいる香穂子に気がついた。 「どうしたの?」 「あ、うん・・・・そういうことだったんだ。そっか・・・・でも、あの様子だと、姿も見えてないのかな・・・・」 「おーい?日野ちゃーん?」 「・・・・天羽ちゃん。」 「ん?」 「私・・・・ちょっと行ってくる。」 「は?」 何か悩んでいたかと思ったら、突然中空を見据えたまま決意したように言う香穂子に、天羽は眉を寄せた。 しかしそんな天羽の様子よりも気になる事があるのか、香穂子は慌ただしく席を立つと言った。 「ごめん、ちょっとリリに相だ・・・・じゃなくて、急に学院に用事ができた。買い物は今度でもいい?」 「あ、うん、それはまあ、別にいいけど。」 「ごめんね!今度は冬海ちゃんも一緒に行こう!」 今回は予定が合わなくて来られなかった事を悔しがっていた後輩の名前を出してそう言う香穂子に、天羽はわけがわからないまま頷く。 それを見て伝票を拾い上げ香穂子はレジへ向かおうとして。 「あ、それと天羽ちゃん。」 「?」 「さっきの記事、派手じゃないと思うよ。彼女は小日向さんは、きっとこれからもっともっと愛されるヴァイオリニストになると思う。なんたって・・・・」 その後、笑顔と共に香穂子が付け足した言葉は、いまいち天羽には意味がわからなかったが、何故かとてもしっくりとはまった。 その不思議な感覚を確かめているうちに、香穂子は「とりあえず姿ぐらいは見えるようにならないかリリに相談して・・・・」などとぶつぶつ言いながら喫茶店を出て行ってしまう。 なんだかよくわからないながらも、親友を見送った天羽はため息を一つついて、再びノートパソコンを立ち上げた。 友だちとの気楽な買い物の予定はふいになってしまったが、せっかくだし、この記事をまとめてしまおう。 そうして香穂子が来る前に書きかけていた記事の原稿を開いたところで、少し考えた上で、天羽は文章を少し消した。 香穂子はそのままでもいいと言っていたが、さっき香穂子から聞いたばかりのフレーズの方がしっくりきていた気がしたからだ。 だから。 カタカタとキーボードを叩いて天羽は消した文に新しい文を上書きしたのだった。 『その名は、小日向かなで。音楽の妖精に愛されたヴァイオリニストである』 〜 Fin 〜 |